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聖書のお話2025.01.19
【聖書箇所】ルカの福音書17:11~19 【説 教 題】感謝をささげに来た男 【中心聖句】わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2) 【説 教 者】黒田 明 【新 聖 歌】172望みも消え行くまでに イエスさまと弟子たちがガリラヤからエルサレムに向かう途中、ある村に入られたときのことです。何やら遠くの方からイエスさまに向かって叫ぶ人々がいました。実は、彼らはツァラアトという重い皮膚病にかかっている10人の者たちでした。 調べによると、当時、この病気は治療が難しく、また感染の恐れもあったことから、かかった者は家族から離れて暮らさなければなりませんでした。また、人々に近づくことも許されていませんでした。なので、人々に接近できる距離というものが定められていまして、それは風向きにもよりますが、少なくとも45メートルの間隔が必要でした。また、次のような決まりもありました。人々がいるところでは、「私たちは汚れた者です」と言わなければならないという決まりです。そのような彼らでしたから、当然のこと、神の聖所への出入りなど許可されるはずもありませんでした。要するに、彼らは病気が治らないというつらさばかりでなく、家族や社会からも引き離されるというつらさを味わわなければならなかったのです。 しかし、いつしかイエスさまのうわさを耳にしたのでしょう。「その方は、水をぶどう酒に変えることがおできになる」、「その方は、湖の波さえも静めることがおできになる」、「病人をいやし、また悪霊でさえ憑りつかれた人から追い出すことがおできになる」…。そのようなうわさを耳にし、またそのイエスさまがこの村をお通りになるとのうわさを聞きつけたものですから、彼らの期待は最高潮に達したものと思われます。 事実、イエスさまが彼らの村をお通りになられると、彼らは自分たちにできる精一杯のことをしました。つまり、イエスさまに近づきたくてもそれができませんでしたから、彼らは遠く離れたところからイエスさまに治してほしいとの願いを込め、大きな声で必死になって叫んだのです。 「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」 と…。 なお、「先生」と訳されたことばですが、そもそもは「ご主人さま」とか「総司令官」を意味することばだそうです。ということは、どういうこと...
聖書のお話 2025.01.05
聖書:ヨハネ9:1-7,35-41 題:主を信じる 中心聖句:彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。ヨハネ9:38 賛美:50 心を高くあげよう 明けましておめでとうございます。今日は、新年初めての礼拝です。皆さんは、今日どのような思いでこの礼拝式に臨んでおられるでしょうか。それぞれが、新たな決意を持って出席されておられるかもしれません。また、中には、大変な状況の中にあって、新年どころではないがとにかく礼拝には、と駆け付けている方もいるかもしれません。願わくは、この礼拝を通し、私たち、一人一人の上に主なる神からの平安と希望が注がれますようお祈り致します。 さて、今日読みました箇所はイエス様の奇跡のお話しの中でも良く知られている、生まれつき目の見えない人の癒しのお話しです。それは、イエス様がいつものようにお弟子さんたちと共に宣教の旅をしている時のことです。通りすがりに、ある一人の目の見えない男の人がイエス様の目に留まりました。イエス様は彼の前で立ち止まり、あわれみをもって彼をじっとみつめられたのでしょう。すると、弟子たちもその男に目を留め、次のようにイエス様に尋ねたのです。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」(9:2) それに対してイエス様は、次のようにお答えになりました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」このイエス様の答えは、弟子たちにとっては、とても予期していなかった答えだったでしょう。弟子たちは、その人の盲目の原因を突き止めようとしたのです。それで、その人の罪か、それとも本人の罪かと聞いたのです。それに対してイエス様の答えは、そのどちらでも無かったのです。当時、ユダヤ社会の通念では、「病気や不幸は罪の報い」という因果応報の考え方がありました。私たち日本社会にも、少なからず、そのような考えがあるのではないでしょうか。そんな中で、イエス様の答えは、弟子たちの、そして、私たちの障害や不幸に対する視点を大きく変化させるものでした。 イエス様は、その原因を追及しようとはせず、その目的をお示しになっています。すなわち、「この人に神のわざが現れるためです。」とおっしゃいました。そして、そのおことばの通にその人を癒し、神の栄光をお示しになっています。...