聖書のお話 2025.04.06
聖書:ルカ:22:31-34、54-62
題:立ち直る信仰
中心聖句:「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。
ルカ22:32
賛美:303 安かれ わが心よ 説教者:グレイ恵子信徒教師
おはようございます。4月に入り、イ―スターまで残すところ2週間となりました。今日より、聖書は、新約聖書に移りイエス・キリストの通られた十字架の道をともに歩んでまいります。今日の箇所は、イエス様が捕らえられる直前と直後のイエス様と弟子たちのやり取り、及び、弟子たちのとった行動の様子を見てまいります。主はそれらを通して、わたしたちそれぞれに何を語ろうとしているでしょうか。主の語ろうとしているおことばに耳を傾けさせて頂きましょう。
それは、ユダヤ教の三大祭りの一つ、過ぎ越しの祭りの時です。このお祭りでは、主なる神がイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放してくださったことを覚え、当時と同様に種なしパンを食するのが習慣です。今回は、イエス様にとって弟子たちと共にあずかる最後の過ぎ越しのお食事でしたが、その時、イエス様は、これから分かち合おうとしているパンと葡萄酒につぎのような新しい意味を与えられました。
イエス様は、一家の主人が子どもたちに食事を分け合うように、パンを取りあげると、「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。」(19)そして、ぶどう酒の入った杯に対しては、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(20)と言われました。すなわち、パンは、イエスキリストの体、ぶどう酒は、イエスキリストの血をあらわし、それらを通して、今後、過ぎ越しの食事をするときには、イエスキリストによる新しい救いの約束を思い出し、その恵みを味わい知るように弟子たちに指示されたのです。これが、受け継がれ今や私たちキリスト教会の大切な式典である聖餐式となっています。
しかし、この時の弟子たちは、いったいイエス様が何を言って居るのか十分理解することは、出来なかったようですし、また、イエス様が十字架を前にして心の内に葛藤があることも知る由もなかったでしょう。それは、その時の弟子たちの関心事でわかるのではないでしょうか。彼らは、だれがイエスを裏切るのか、まただれが一番偉いのかなど、関心は自分たちに向けられており、イエス様を本当に気遣うこころはなかったでしょう。それは、のちにあのオリーブ山で、3度も眠り込んでしまった弟子たちの姿からもわかるのではないでしょうか。あの時のイエス様は、十字架を前にして汗が血のしずくのように流れ出るほどに精神的に苦しまれていました。
そして、ついに、イエス様は、語られていた通りにユダの裏切によって捕らえられて行く事になりました。しかし、ここが今日のポイントですが、果たしてイエス様を裏切ったのは、ユダだけであったでしょうか。ユダが悪者であって、あとの弟子たちには、大丈夫なのでしょうか。そのような高慢というか、おごり高ぶったこころが彼らの内に、また、私たちにもあるのではないでしょうか。
この時、イエス様は、弟子たちの中のリーダー格のシモン、すなわちペテロにこのような言葉をかけています。「シモン、シモン。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(31-32)「ふるいにかける」とは、ここでは、主への信仰が確かな物かどうかを、試してみることを意味しています。すなわち、これから起こる十字架の道を通しての弟子たちの信仰のあり様とその後について語っています。
さて、このサタンからの試練とイエス様のとりなしを聞いたペテロは、ここでどのような返答しているでしょうか。次のようにあります。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(33)実に立派な模範的答えです。確かに、その時のペテロは、そう思ったのでしょう。しかし、現実は違っていました。イエス様は、それを御存知でした。そして、つぎのようにペテロに予告したのです。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(34)
やがて、イエス様は、ユダの裏切りによって捕らえられ大祭司の家に連れていかれました。その時、残念ながら、弟子たちは、皆、イエスを見捨てて逃げってしまいました。しかし、12弟子たちの中で、ペテロだけは、イエス様の後を遠く離れてついて行きました。立派なことです、しかし、問題はその後です。ペテロが大祭司の中庭で人々と一緒に火にあたっているときのこと、3人の人物からかわるがわるイエスの仲間だと問い詰められたのです。その時です、とっさに彼は、イエスを知らないと強くイエス様との関係を否定してしまったのです。それも、一度ならず、3度も否定してしまったのです。するとその時、鶏が鳴いたのです。それは、イエス様が前もって予告していたことだったのです。
それを思い出したペテロは、どうしたでしょうか。聖書は、次のように語っています。「外に出て行って、激しく泣いた。」(62)この短い描写の為に、一節が使われています。含蓄のある描写ではないでしょうか。彼は、そこにもう留まることが出来ませんでした。イエス様の御顔を離れ、外に出て激しく泣いたのです。その涙には、どんな彼の気持ちが現わされていたのでしょうか。涙は、悲しいときだけ流れるものではありません。感動の涙や悔し涙、うれし涙など色々ありますが、皆さんは、どう思われるでしょうか。少なくとも、イエス様への忠誠を裏切ってしまった彼の心の痛みをあわらわしている涙であったことでしょう。しかも、激しくというように、その痛みは大きなものでした。
さて、これは、ペテロの信仰の終わりでしょうか。そうではありませんでしたね。彼は、後にイエスの弟子として、もう一度イエスに従うチャンスが与えられています。そして、彼のイエス様への忠誠を全うし、最後には殉教の死をもってその生涯を捧げています。それは、彼自らの力ではありませんでした。イエス様は、今日の中心聖句でつぎのように語っています。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。(ルカ22:32)すでにイエス様は、ペテロが、イエスの元に戻ることが出来るように祈って下さっていたのです。この祈りは、わたしたち、全ての信仰者に今も注がれています。パウロもロ―マ8:34に、次のように語っています。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしてくださるのです。」
自分にがっかりし、どんなに激しく泣きたいときも、安心して、イエス様のとりなしの愛の中に飛び込んで行きましょう。立ち直る信仰が自分の努力ではなく、主によってすでに備えられているのです。主の祝福がわたしたち一同と共に豊かにありますように。
「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」
ルカ22:32