聖書のお話2025.12.28
【聖書箇所】マタイの福音書1:1-17
【説 教 題】キリストの系図の豊かな意味
【中心聖句】アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図(マタイ1:1)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】99馬槽の中に
はじめに
今回は、救い主イエスさまの系図について取り上げたいのですが…。実は、求道中の方々にとって、この系図は、しばしば、つまずきになると言われたりもします。というのも、新約聖書の1ページを開くと、さっそくにカタカナの羅列の系図が出てくるものですから、うんざりして読むのを止めたというようなことを聞くことがあるからです。
けれども、今回、私たちはこの系図は必要なものであり、深い豊かな意味があるということを覚えたいと思うのです。そして、それはなぜかといえば、マタイの福音書はもともと1世紀のユダヤ人の救いを強く意識して書かれたものなのですが、その読者であるユダヤ人は系図をとても大事にしていたからです。というわけで、この系図から、幾つかのことをお話させていただきたいのです。
1.アブラハムとダビデへの救い主出現の約束の実現成就
まず1番目といたしましては、この系図は旧約聖書において神がアブラハム並びにダビデとの契約において約束しておられたメシアの預言が、マリアから生まれたイエスさまの出現によって実現成就したことを教えているということです。
1節で、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と言われているのがそうです。すなわち、神はイスラエルの先祖にして、私たちクリスチャンにとっても信仰の父と呼ばれているアブラハムに、メシア出現の約束をなさいました。ご承知のとおり、アブラハムはキリスト出現の2000年ほど前の人物であり、もともとは月を神として拝む異教の地、カルデヤのウルというユーフラテス川下流のメソポタミア地方の人でした。しかし、あるとき神から召し出され、信仰によってカナンの地へとやってきたのです。
彼の人生には、いろいろな試練がありました。とりわけ、最愛の息子イサクをささげよとの神のご命令に従うことは、彼にとって大きな試練だったに違いありません。しかし、彼がモリヤの地でイサクを本当にささげようとしたとき、創世記22章18節のところを読むと、神は何と言われたでしょうか。試練に合格した彼に対して、神は「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである」と言われたのです。つまり、世界の国民はアブラハムから出てくる子孫によって、救いの祝福を受けると、神はそう約束なさったのです。では、アブラハムから出てきて、世界の国民が救いの祝福を受けることができる子孫とは、いったい誰なのかというと、それこそ救い主のイエスさまなのです。
そしてまた、神はイスラエルの王ダビデに対しても、救い主メシアの出現を約束なさいました。ダビデはキリスト出現以前のちょうど1000年ほど前の人物になりますが、もともとは羊飼いの少年でした。しかし、後にイスラエルの王となり、アブラハム同様、彼にもいろいろな試練がありましたが、彼はすべて信仰によって乗り越えてきました。そんな彼に対して、神は、あなたの子孫から救い主を出現させると約束をしてくださったのです。
すなわち、サムエル記第Ⅱ7章12節から14節前半のところを読むと、信仰の人ダビデに対して、神は「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われたのです。つまりその意味するところは、ダビデ王から出てくる子孫が、国を建てるという約束ですが、この約束には二重の意味がありました。1つめは、ダビデ王の子孫として出てくるダビデの息子ソロモンが、王位を継承してイスラエルという地上の国をさらに強い国とするという意味。2つめは、将来、ダビデ王の子孫として救い主のイエスさまが出現し、霊的な神の国を建て、人々を神の国に入れてくださるという意味です。
というわけで、神は2000年前のアブラハムに、また1000年前のダビデ王に、メシア出現を約束なさったわけですが、いよいよ時が満ちて、そのメシアはマリアから生まれることによって実現成就したということを、教えているのがこの系図なのです。
2.この系図には異邦人が入っている
2番目にお話することは、このキリストの系図には異邦人が入っているということです。ご承知のとおり、1世紀のユダヤ人たちは、異邦人に対して、彼らは偶像を拝むので、宗教的に汚れたやからとして軽べつし、嫌っていました。ラビといわれる当時のイスラエルの宗教的指導者たちの書いたものによりますと、自分たちが異教の民に生まれなかったことを、神に感謝すると書いていたほどでした。
それゆえに、自分の系図を書く時には、自分が純粋にユダヤ人の家柄であることを誇って書きました。自分の系図に異邦人の名前を入れることはしなかったのです。それは恥になることだったからです。面白い話がありまして、イエスさまが生まれたときのイスラエルの王をヘロデ大王というのですが、彼は自分が純粋なユダヤ人ではなく、異邦人エドム民族の血が流れていたものですから、立派な系図が書けませんでした。そこでイライラして、イスラエル中の系図を焼き捨てるよう命じたという話が残っているのです。
しかし、キリストの系図は、そんなことにまったくとらわれずに平気で、自由に、異邦人を入れて記しています。しかも、2人います。5節の「ラハブ」と「ルツ」がそうです。「ラハブ」とはどんな人物だったでしょうか。伝統的には、キリストよりも1500年前ごろの女性のようです。イスラエルの民が奴隷として苦役を強いられていたエジプトを脱出して、それから荒野での40年間の旅が終わって、いよいよ約束の地カナンへと入国する際、最初の戦いの舞台となったのがエリコ…、そのエリコの町で遊女だったのが彼女でした。しかし、イスラエルの味方をしたので、その後、イスラエルの民の1人と結婚し、イスラエルの信仰共同体に入り、イスラエルの神を信仰するようになっていくのですが…。もともとは、カナンの神々を拝んでいた宗教的に汚れた異邦人だったのです。
また、ルツも、ラハブ同様、異邦人の女性でした。ルツは、ラハブよりも時代が下りますが、キリスト出現の1200年前か1300年前ごろの士師の時代の初期の人でした。ルツは、もともと宗教的に汚れた異教の民モアブ人でした。モアブ人は、申命記23章3節を読むと、「
アンモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して【主】の集会に加わることはできない」と言われているほど、忌み嫌われていた異教の民だったのです。
しかし、ききんのため食糧を求めて、イスラエルからモアブの地に移住してきたユダヤ人一家の息子とルツは結婚しました。そして、特に姑ナオミとの交わりを通して、やがて彼女はナオミが信じている神を信じ、受け入れるのです。しかも、ルツは早くに夫を亡くしてしまうのですが、それでも姑ナオミから離れず、彼女に従い、自分の郷里モアブの地を捨て、イスラエルのベツレヘムへとやってくるのです。そしてしばらくすると、裕福な財産家ボアズと知り合い、やがてボアズの妻となり、ご承知のとおり、彼女のひ孫としてダビデが出てくることになるのです。
このように、キリストの系図には、異邦人がいることを書き、全然気にしていないのです。そしてそれはなぜかといえば、救い主キリストにあって、ユダヤ人と異邦人との隔ての壁が取り除かれるからなのです。キリストの救いにおいて、民族や国籍は関係ありません。世界のすべての国民や民族は、救い主キリストの素晴らしい救いにおいて、ひとつになることができるのです。世界のすべての国民と民族を一つにし、平和にするのは救い主キリストなのです。
3.男と女の差別が取り除かれている
3番目にお話することは、このキリストの系図は、男と女の差別が取り除かれているということです。実は、当時のユダヤの系図には通常、女性の名がでてきません。当時は、男中心の家父長制の時代だったものですから、女性は法律上の権利が認められていなかったのです。というわけで、当時、女性は子どものときは父親の支配下にあり、結婚してからは夫の支配下にありました。今日的視点からすると、何ともひどい時代だと思われるかもしれませんが、日本でも以前はそうでした。ともかくも、自分は異邦人と女に生まれなかったことを神に感謝するという言い方があったほどでした。ところが、キリストの系図は、家父長制の男中心の時代であったにもかかわらず、平気で女性を載せています。しかもマリア以外に4人載せています。3節に「タマル」、5節に先ほども触れましたが「ラハブ」と「ルツ」、6節に「ウリヤの妻」、すなわちバテシェバの4人です。
しかも、これら4人の女性は、言い方が悪いかもしれませんが、皆いわくつきの女性でした。3節の「タマル」は、自分の義理の父であったユダと関係を持って子どもを産む女性でした。「ラハブ」は、先ほども触れましたように、もともとエリコの町の遊女でした。「ルツ」についても先ほど触れましたように、もともとは神ご自身に忌み嫌われた偶像を拝むモアブ人でした。そして、「ウリヤの妻」、すなわちバテシェバは自分の夫が戦場で敵と命をかけて戦っているときに、イスラエルの王ダビデと関係をもつ女性だったのです。
しかし、キリストの系図は、そのような女性がいることを書き、全然気にしていないのです。というのも、キリストのもたらす素晴らしい救いにおいては、男と女の差別がないからです。そして後に、使徒パウロもガラテヤ人への手紙3章28節のところで、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」と言っていることがわかります。
4.この系図は、キリストに目を向けさせる
4番目にお話することは、このキリストの系図は、先祖の立派さを誇る気持ちがまったくないということです。逆に、この系図は、これらの先祖から生まれたキリストご自身に目が注がれるようになっています。
当時のユダヤ人が系図を書くときは、自分の先祖に立派な人がいることを書きたくて書いたのです。しかし、キリストの系図は違うのです。罪でドロドロに汚れている罪人が目立つ系図になっています。たとえば、先ほどのアブラハムにしても、確かに彼は信仰の父と言われていますが、自分の妻サラとそばめハガルとの3角関係で苦しみ悩んだとき、妻の気持ちを察した彼はとうとうハガルとその息子イシュマエルを砂漠に追放してしまうのですが、自分の息子を砂漠に追放するときの父アブラハムの気持ちはどんなだったでしょうか。
また、先ほど出てきましたイスラエルの王ダビデの場合はもっとひどいものです。自分の部下ウリヤの妻バテシェバに手を出し、バテシェバが身ごもったことを知ると、夫のウリヤを戦場で戦死させ、知らん顔を決め込んでいたからです。しかし、神が遣わした預言者ナタンによって、その罪を指摘されて、心から悔い改めるのですが、彼がしたことはそういうことだったのです。
6節と7節に出てくるソロモンもよくありません。最初は、謙遜に神に従い、神から豊かな知恵を与えられ、その知恵を用いてイスラエルの領土を最も広くしました。エルサレム神殿と王宮を建設しました。また、海外貿易を行い、巨万の富を得ました。信仰の格言である箴言もたくさん作りました。しかし、後に彼は妻700人、そばめ300人、計1000人の大ハーレムを築き、異邦人の女性、すなわち、異教の民からも女性をたくさん集めてきました。そのため、ソロモンは異教の影響を受け、背教してしまうのです。
10節の「マナセ」もそうです。イスラエルの王でありながら、真の神に従わず、偶像礼拝をイスラエルに広めた人物で、神の怒りに触れました。7節の「レハブアム」と「アビヤ」、9節の「ヨタム」と「アハズ」、11節の「エコンヤ」という王たちも、神に背く悪い王たちでした。
確かに、この系図には、8節の「アサ」と「ヨシャファテ」、同じ8節の「ウジヤ」、9節の「ヨタム」、10節に出てくる「ヒゼキヤ」、10節と11節に出てくる「ヨシヤ」という信仰に生きた良い王もいました。しかし、だからといって完全だったわけではありません。彼らも不完全な罪人でした。
ということで、この系図は、キリストの先祖に立派な人がいることを教える系図ではありません。そうではなくして、この系図は最後に出てくる約束の救い主メシアのキリストに目を向けさせるために書かれた系図なのです。ですから、16節が一番大切なのです。「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。」すなわち、この系図はマリアから生まれるメシアであるイエスさまに目を向けるための系図であることを教えているのです
それゆえ、今日のわたしたちも、この系図の最後に出てくる救い主のイエスさまに目を向けたいのです。そして、イエスさまを自分の救い主と信じ、恵みとして救いと祝福と永遠の生命を受け、喜んで日々歩んでいきたいのです。というのも、世界の希望は約束された救い主イエス・キリストにあるからです。
ということで、イエスさまを人類のただ一人の尊い救い主として心から信頼し、すべての罪を赦され、何ものにも代えられない救いの喜びの中で、後悔のない真のよい人生をこれからも歩んでいきたいと思うのです。