聖書のお話2026.05.03

聖書:エレミヤ36:1-8,16-25,32

題:永遠なる主のことば

中心聖句:「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」

                        第一ペテロ1:24-25

賛美:40 ガリラヤの風かおる丘で  説教者:グレイ恵子信徒教師

 

  おはようございます。今日より、4回に分けて、「聖書と救い」というテーマでみことばを開かせて頂きます。皆さんにとって聖書はどのような書物でしょうか。一週間の内で何回手にとって読んでおられるでしょうか。中には、本棚で眠っているという聖書もあるかもしれません。皆さんは聖書をどのような気持ちで開いておられるでしょうか。聖書に関して第ニテモテ3章16節には、つぎのようにあります。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」聖書は神さまからのおことばであり、私たちの生きる上で大切な教えや戒めが盛り込まれていることが語られています。

 

今、私たちが使っている聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻からなり、これを正典と言っています。カトリック教会などでは、他にアポクリファと言われる外典の含んだものを用いています。聖書は、紀元前1000年頃から西暦1世紀末にかけ、神からの霊感を頂いた預言者、王、漁師、医師など約40人の多様な著者によって書かれました。旧約はヘブライ語、新約は、ギリシヤ語で記されまとめられました。現存する最古の聖書写本は死海文書と言われ、死海の北西の洞窟で1945年に発見されたものと言われています。

 

今、聖書は、700語を超える言語に翻訳され、今継続中の言語を含めましたら3400語を超えているということです。聖書翻訳といいましとウィクリス聖書翻訳協会がありますが、福音伝道教団からは、カセビ恭子さんがご主人のジャエミさんと共に宣教師として、ブラジルに遣わされています。今、私たちは、長い年月を得て色々な方々の苦労を通して、このように完成された聖書を日本語で読むことが出来る時代を迎えることができました。因みに、日本では、1549年フランシスコ・ザビエルによって日本語訳されたマタイ伝がもたらされ、その後、新旧約全巻の日本語聖書は、明治20年(1887年)プロテスタントの宣教師と日本人協力者によって翻訳されたものが最初のものといわれています。

 

今では、ほとんどのクリスチャンが自分の聖書を手に入れることができ、また一人で何冊が持っている方もおられるでしょう。最初は、巻きものかたちで、手書きされたものでしたから、代表者がそれを読み、聴衆がそれに耳を傾けるという時代があったわけです。今日は、その頃の様子をエレミヤ書より垣間させて頂き、聖書を通して与えられる神のことばの尊さにこころを留めさせて頂きたいと思います。

 

時は、紀元前7世紀末のことです。南王国ユダが敵国バビロンに滅ぼされる前のこと、預言者エレミヤが活躍していました。彼は, 主なる神を離れ、偶像礼拝の中にいる神の民や王に、エルサレム滅亡、捕囚を預言し、彼らに悔い改めを迫りました。それゆえ、エレミヤは人々の反感を買い、憎まれ、さまざまな迫害を受けましたが、それでも、涙をもって神の言葉を語り続けたため「涙の預言者」として呼ばれています。

 

ある日のこと、彼が神殿に行き来出来ない時のことです。つぎのような主のことばが彼にあったのです。「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれの悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」(36:2-3)エレミヤはこの言葉を聞くと、早速、バルクを読んで、これまで主がエレミヤに語られた言葉を口述筆記させました。それからバルクを主の宮に行かせ、彼に代わって主のことばを人々に読み聞かせたのです。

 

それを聞いた人々の反応は、どうだったでしょうか。彼らは、心を動かされ、その中のミカヤという人物は、預言の重大性にこころを留め、それぞれの国のリーダーたちにそこで聞いたことばを伝え、さらには、首長たちを通して、その巻物がその時の王であるエホヤキムのもとに運ばれたのです。それは、第9の月の寒い日で、王の前には、暖炉の火が燃えていました。すると、王は、その巻物が三、四段、読まれるごとに、その部分を切り取っては、暖炉の火に投げ入れ、すべてを火で焼き尽くしてしまったというのです。それは、エレミヤとバルクが一年近く歳月をかけて作成した巻物だったのです。それにしても、王のとった態度は、非常に恐れ多きことであり、しかも、そこにいた家来たちも、王を止めることも、恐れおののくこともなかったというのです。

 

この後、事態はどのようにすすんでいったのでしょうか。二つの対照的な出来事が起こったんです。神のことばを軽んじ悔い改めなかったエホヤキムは、エレミヤの預言のように、バビロン王ネブカデネザル王によって攻められ無残な最後を迎え、そして、燃やされてしまった巻物に関しては、主の命令により、エレミヤとバルクにより、もう一度、口述筆記され、さらに多くの神のことばが付け加えられていったというのです。それが、今に伝わる「エレミヤ記」となりました。

 

この様に、今の聖書全体が私たちの手元に届くまでには、数えきれない多くの人々の主への献身的な働きと主への信仰があったことを思わせられます。第一ペテロ1章24-25節には、つぎのようにあります。「人はみな草のよう。その栄は草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」この地上にあるものは、移り変わり必ず滅びなければなりません。しかし、聖書にある神のことばは永遠に存続し、その力を発揮し、私たちの霊的な養い、救いとなっています。時には、厳しいおことばがあり、私たちを悔い改めと導かれます。そして、時には、私たちを慰め、再び主の御力によって強く立たしめてくださるのも聖書です。

 

願わくは、これからも聖書に示された神のみことばを大切にし、私たちの霊的糧とすることが出来ますように祈り願います。アーメン

   

 

 



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