聖書のお話2026.03.22

【聖書箇所】マタイの福音書27:11~26

【説 教 題】不当な裁判

【中心聖句】キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。

                                 (Ⅰペテロ2:22)

【説 教 者】黒田 明

【新 聖 歌】102主は命を

 

 

「それでもボクはやってない」という日本の映画がありましたが、人間が人間をさばくとき、そこには誤った判断を下してしまう可能性があります。無実の人を死刑にまで定めてしまう可能性さえあるのです。ご記憶の方もおられるかと思いますが、1950(昭和25)年、免田栄さんという人が強盗殺人の罪を着せられ、死刑の判決を受けるという出来事がありました。しかしそれを不服とした免田さんは控訴、さらには上告にまで至ったわけですが…。結局のところ、最高裁判所での判決においても死刑が宣告され、免田さんにとってはどうにもそれが動かされないものになってしまいました。というのも、当時の日本においては、裁判を受ける権利が3回しかなかったからです。けれども、免田さんは決してあきらめませんでした。彼は日本の三審制度を打ち破る再審を請求したのです。実は、こうして30年余の戦いを経た1983(昭和58)年のことですが、ここにきてようやくのこと死刑囚再審において初の無罪が宣告され、彼の無実が明らかにされたというのです。

ところで、今回はイエスさまに対する裁判のところを取り上げようとしているわけですが…。はたして、そのときの裁判はどのようなものだったのでしょうか。このことについては、四福音書を調べていくと、イエスさまに対する裁判が、あたかも「たらい回し」のごときものであったことがわかります。なぜなら、ユダヤ人の側とローマ帝国の側との双方によって、裁判が一晩のうちに幾度となく行なわれたからです。たとえば…、

 

Ⅰ.ユダヤ最高議会(最高法院:サンヘドリン)による裁判としては、3回ありました。

  • 大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる非公式審問(ヨハネ18:12-24)

すでに大祭司職を退いてから15年たっていましたが、なおも影の実力者であった彼のところに、まずは連れて来られました。しかし、ここでは大した審問をすることができませんでした。

  • 大祭司カヤパと最高議会(最高法院)での予審(マタイ26:57-68、マルコ14:53-65)

深夜にもかかわらず、カヤパの私邸にはイエスさまの人気を妬み、目障りなイエスさまを殺してしまおうとたくらんでいた祭司長、長老、律法学者たちが集まっていました。また、そこにはうその証言をするように頼まれた人たちも集められました。そして、不当な裁判が行われたわけですが、人々がどんなことを言っても、イエスさまはただ黙っていらっしゃいました。ただし、カヤパが「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と言われたときだけは、「あなたが言ったとおりです」とお答えになられました。つまり、ご自分が神の子であり、救い主であることを明言なさったのです。しかし、これを聞いたカヤパは、これは神への冒涜だと断言しました。そして「彼は死刑に値する」との声があがりました。中にはイエスさまの顔につばきをかけたり、なぐったり、平手で打ったりする者もいました。イエスさまはそれでもじっと耐えていらっしゃったのです。

  • 最高議会(最高法院)の公式裁判と判決(マタイ27:1-2、ルカ22:66-71)

夜が明けると、深夜の非公式裁判を正当化するために、公式の裁判が行われました。といっても、すでに結論が出ている裁判でした。しかしながら、彼らには死刑を執行する権限がありませんから、この後、ローマ側の裁判にイエスさまを引き立てていったのです。

Ⅱ.ローマ側の裁判としても、3回ありました。

  • 総督ピラトによる第1回目の審問(マタイ27:11-14、マルコ15:1-5、ルカ23:1-5、ヨハネ18:28-38)

ユダヤの裁判では神への冒涜が死刑の理由となっていましたが、それではローマ帝国に訴え出る理由にはなりません。そこで、ユダヤ人指導者たちは罪状をすり替えてイエスさまの死刑を訴えました。要するに、ローマ帝国に対する反逆罪であるとして、イエスさまを死刑にするよう訴えたのです。なお、ピラトはこのときイエスさまがローマ帝国の反逆者とは思えず、イエスさまがガリラヤ出身であるということから、その国主ヘロデのもとにイエスさまを送ることにしました。

  • ヘロデによる審問(ルカ23:5-12)

ヘロデは、かねてよりイエスさまのうわさを聞いていましたから、自分の目の前で行なってほしい奇蹟を期待していました。ところが、イエスさまは何も言わず、期待どおりのこともしてくれなかったので、派手な着物を着せるとピラトのもとへ送り返しました。

  • 総督ピラトによる第2回目の審問と判決(マタイ27:15-26、マルコ15:6-15、ルカ23:13-25、ヨハネ18:39-19:16)

ピラトはイエスさまに何らの罪も見いだせず、またユダヤ人指導者たちの訴えの本質というものも見抜いていましたから、大変面倒な問題を引き受けることになってしまいました。そのため、むちで打ち、懲らしめた上で釈放するという提案をしましたが、告発者たちが納得するわけがありません。そこで過ぎ越しの祭りのときにひとりの囚人を釈放するという総督の習慣を持ち出し、バラバかそれともイエスかと提案しましたが、告発者たちに扇動された人々はバラバの釈放を求めました。しかも、「イエスを釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではない」とまで言われてしまい、彼は告発者たちの要求に屈するほかなくなってしまったのです。

 

以上のようなことから、イエスさまに対する裁判はまともなものとは思えないスピードで行なわれました。しかもこれらの裁判からは、イエスさまを巡って3種類の人間の姿をみることができます。

1つ目は、不当な裁判を行なったユダヤ人指導者たちの姿です。彼らは初めからイエスさまを死刑にすることを前提に裁判を計画していました。ですから、そのときの裁判は昼間にではなく、真夜中に行なわれました。しかも、弁護人なしの一方的な告訴であり、そのときの証言さえもがでっちあげによるものでした。いずれにせよ、イエスさまの人気をねたみ、かつ自分たちの地位が危うくなると考えたユダヤ人指導者たちの姿は、イエスさまに対する「徹底的な反感」以外の何ものでもありませんでした。

2つ目は、不当な裁判を下したピラトの姿です。彼はイエスさまが訴えられたのは「ユダヤ人指導者たちからのねたみによる」ものであることがわかっていました。また彼の妻からの助言もあり、イエスさまは正しいということをピラト自身わかっていました。それなのに、彼はイエスさまに対する無罪の判決を下すことができませんでした。なぜでしょうか。なぜピラトは正しいイエスさまに対して無罪の判決を下すことができなかったのでしょうか。それは興奮して「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んでいる群集を前にして、それを無視するなら暴動が起きてしまう…。そして、もしそのようにでもなれば総督としての自分の地位が危うくなってしまう…。要するに、真実を知りながらも、それを曲げてしまうピラトの姿は、いかにも「自己中心的」であり、また「打算的」であったという以外、何もありませんでした。

なお、3つ目はバラバの姿です。ご承知のとおり、彼は思いもかけずに死刑を免れました。彼は強盗殺人犯であったにもかかわらず、死刑を免れるという恩赦、つまり恵みを受けたのです。なぜでしょうか。それはイエスさまという身代わりがあったからではないでしょうか。すなわち、ふさわしくない者に与えられる無償の賜物…、それを私たちは恵みと呼んでいるわけですが、まさしくその驚くばかりの恵みが彼の現実となったのです。なお、これは想像にしかすぎませんが、バラバ自身、自分が今あるのはイエスさまのおかげと思いながら、残りの生涯を送っていったのではないでしょうか。

そこで最後になりますが、はたして皆さんは「ユダヤ人指導者たちの姿」「ピラトの姿」「バラバの姿」のうち、自分はどのタイプに属していると思われるでしょうか。ある人は、あのユダヤ人指導者たちのように、徹底的な反感を誰かにもっていらっしゃるかもしれません。ある人は、ピラトのように打算的になって、信仰の世界よりもこの世の魅力にひかれてしまっていらっしゃるかもしれません。けれども私たちは今回、あのバラバのように、あの人のおかげで今の私があるのだということを喜ぶとか、すべてはすばらしい神さまの恵みなのだ…、そのことに感謝できる。そういう者でありたい思うのです。特に、イエスさまに対しては、反感をもつのでもなく、また打算を働かせるのでもなく、ただただ恵みによって救われていることを素直に喜び感謝する…、そのようなお互いでありたいと思うのです。そして、願わくはその喜びと感謝を他者と分かち合うというか、喜びと感謝をもって神に仕え、他者にも仕えていく…、そんなお互いにならせていただきたいと思うのです。

 

 

【恵みの分かち合い】

  • イエスさまに対する裁判を、あなたはどう思いましたか。

  • あなたには救いの確信、救いの喜びがありますか。

 

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