聖書の話 2026.06.07
聖書:マタイ3章1-17節 題:イエスとバプテスマ 中心聖句:「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3章17節) 賛美:43 わが君イエスよ 説教者:グレイ恵子信徒教師 おはようございます。先週の日曜日から私たちは、イエス様のご生涯に目を向け、特にイエス様の初期の活動から、色々と学させていただきます。前回は、イエス様の少年時代、12歳頃の出来事を通して、イエス様が天の父なる神を意識しながら、地上の父母を敬い、神にも人にも愛され成長していったことを伺い知り、そのことを通して私たちの教会のあるべき姿を思い描かせて頂きました。そして、今日は、イエス様が三十歳前後になられた頃の出来事を見させていただきます。テーマは、「イエスとバプテスマ」です。 ここに居られる大多数の方はバプテスマ、すなわち洗礼を受けておられることでしょう。皆さんは、いつどのようなお導きのもとバプテスマを受けられたでしょうか。私の場合は、東京の大学を卒業して、故郷に帰り、新しい人生のスタートをする時でした。母教会であるこの教会に戻り、当時の牧師であった関根一夫先生からの一言がバプテスマを真剣に考える切っ掛けとなりました。「私は、倉持さんの為に韓国の祈祷院に行って洗礼の為に祈って来ます。」そういって、牧師はその時、私に「バプテスマに備えて」という一冊の本を下さいました。 その本を読みながら、私を決断へと導いたもっとも大きな理由、それは、聖書の世界では、イエス様を信じた人々が、何の躊躇もなく、言い訳もなくバプテスマを受けているという事実でした。私は、その時、これまでの信仰生活でイエス様がどれ程人生の支えになったかを振り返ってみました。そして、これからイエス様なしでは、生きて行けないという実感をもち、バプテスマを受けて、信仰を表明する決断をしたのです。 それは、バプテスマを受ける前の日のこと、家族にも許可をもらうようにとの牧師のアドバイスに、私は、天理教を信じる父親にそのことを話しました。父親は、キリスト教自体に反対するというよりは、もし結婚できなくなったらどうするんだということを言いました。それでも、あきらめようとしない私に、自分も信仰を持って生きているものとして、それがどういうことなのかを知っている父は、その時の私を止め...