聖書のお話2025.07.06
聖書:使徒8章26節―40節 題:導き手 中心:主の名を呼び求める者はみな救われる ローマ10:13 賛美:新聖歌177 説教者:グレイ恵子信徒教師 おはようございます。今日は、「導き手」と題してお話をさせて頂きます。私たちがこの世に生まれてから死ぬまでに、私たちは何人もの人生の導き手と出会います。たとえば、私たちの産みの親、または、育ての親、家族、そして、保育園、幼稚園、学校の先生方、また社会で出会う人々でしょうか。誰一人、かけてはならない大切な人生の導き手であることでしょう。そんな中で、今日は、特に信仰への導き手に視点を宛てさせて頂きたいと思います。 今、皆さんは、イエス・キリストを信じ、礼拝に集っておられます。中には、求道中の方もおられます。それぞれが、ここまでの信仰生活、求道生活へと導かれました背後には、何人かの導き手との出会いがあったことでしょう。そして、これからもあるでしょう。 それぞれが、それぞれのストーリをお持ちのことと思います。 私が、イエス・キリストへの信仰を持ったのは、18才の時でした。それまでは、家に代々継がれた天理教の宗教の中で生活していました。今、思うとすでにそのころから両親を通して、人間を越えた神なるものへの信仰心がかたち造り出されていたと思うのです。高校時代、友達関係で悩みました。ある日、私は、学校を休み、地域の祈りの場所になっている家の二階にある祭壇に、一人ひざまずき、神に助けと平安を祈り求めました。長い時間が流れました。明るかった外は、すでに薄暗くになっていました。しかし、私の心には、少しの平安も与えらえませんでした。そんなある日のこと、私のクラスにいました、たった一人のクリスチャンが私に声を掛け、教会へと誘ってくれたのです。その友人とは、今も、この教会で一緒に教会生活をさせて頂いております。これが、私がイエス様を知る大きなきっかけとなりました。 私は、すぐにイエス様を信じることはできませんでしたし、教会にも続けて通いませんでしたが、今でも思い出すのは、その友人がいつも私を気遣ってくれていたということ、そのことが大きな慰めと支えになりました。それから暫くして、その友人は、私を軽井沢で行われた高校生のバイブルキャンプに誘ってくれました。そこでの皆さんとのお交わり、そして、牧...