聖書の話 2025.10.26
【聖書箇所】使徒の働き15:1~35(15:1-11)
【説 教 題】エルサレム会議
【中心聖句】むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、
かしらであるキリストに向かって成長するのです。(エペソ4:15)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】230十字架のもとぞ
国会でも、会社でも、教会でも、人が集まるところにおいてはどこでもそうでしょうが、会議が白熱してまいりますと激しい議論になります。ある人たちは激しい議論を好まず、できれば穏やかな会議に、またスムーズな会議になることを望むかもしれません。でも、会議が白熱し激しい議論になるのは、人々がそのことを大切な議題として受けとめ、真剣に考え、話し合っているということでもあるのではないでしょうか。実は、初代教会においても激しい論争になった出来事が今回のところに記録されています。紀元49年の初め頃に開かれたエルサレム会議として知られているのがそれです。
そこでまずはその会議の発端についてお話をさせていただくと、アンティオキアの教会にやって来たある一部のユダヤ人クリスチャンたちがその教会の異邦人クリスチャンたちに対して「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と言ってきたことにあります。要するに、「割礼」という儀式を受けて、ユダヤ人と同じようにならなければ救われないと彼らは主張してきたのです。一方、パウロとバルナバは、ユダヤ人の昔ながらの習慣を異邦人にまで押しつけることに反対しました。そして「私たちが救われるのは信仰による」ということを主張してきたものですから、両派の主張は真っ向から対立してしまったのです。つまり、このとき問題になったのは、何が救いの条件になるのかということであり、そこに意見の対立が起こったわけです。では、意見が合わないからということで両派はケンカ分かれに終わってしまったのかというと、むしろ両派が選んだのは「さらなる話し合い」ということでした。クリスチャンであった彼らは、互いに話し合うということの中に働かれる神のみこころを求めていこうとしたのです。そこでアンティオキアの教会はエルサレムの使徒たちや長老たちに、この件で協議してくれるよう求めました。するとエルサレムの教会でもこのことは福音の核心にかかわる重要な問題であると受けとめてくれたので、エルサレム会議はこのようにして開かれることになったのです。
さて、今度はエルサレム会議の内容についてお話をさせていただくと、その会議の中心は「救いのために割礼やモーセの律法を守ることが必要か否か」ということでした。そしてそのためには、まず協議する内容を全体に理解してもらわなくてはなりませんから、代表者による提案の説明がなされ、また提案の理由についても述べられました。また、説明を聞いてわからないところがあれば、それについての質疑応答の時間もあったでしょう。こうして、協議する内容が全体に理解されると、今度は意見交換がなされました。すなわち、割礼を救いの条件とすることに賛成である派と反対である派とに分かれて、意見を交換し合ったのです。しかも7節前半のところを聖書新改訳2017では「多くの論争」と訳していますが、第3版では「激しい論争」とありますから、その会議がいかに白熱し、激しい議論となったかが想像できます。
ところが、その後ペテロが立ち上がって意見を言うと、割礼を救いの条件にしていた者たちをも含め、全会衆が沈黙してしまいました。というのも、ユダヤ人と異邦人との間に何の差別もしておられない神の広く深い愛が、ペテロの語ることばを通して会衆のひとりひとりにわかったからです。またそれとは反対に、自分たちにも負いきれないくびきを異邦人の首にまでかけようとしていた自分たちの愚かさが、ペテロの語ることばによって痛切にわかったからです。
続いて、12節を読むと、ペテロの意見陳述を補足するかのように、バルナバとパウロが神によるたくさんの異邦人の救いを証言しました。そしてふたりが話し終えると、最後にエルサレム教会の指導者であったヤコブが、会議の結論を述べました。13節から21節。要するに、彼はペテロの主張が旧約聖書とも一致すると支持し、ユダヤ人が守ってきた伝統や習慣のことで、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけないと断言しました。
つまり、会議の結果、「救い」はただただ恵みのゆえに信仰によって与えられるものであるということが、ここで確認されたわけです。但し、ヤコブは律法を守るユダヤ人クリスチャンたちへの愛の配慮ということから、20節にある付帯事項を異邦人クリスチャンたちに求めました。すなわち、ユダヤ人クリスチャンたちは偶像に供えた物や動物の血を口にすることをきらっていましたから、配慮してほしいということを付け加えたのです。
なお、この会議の決定事項は書面として記録されました。また、その決定の周知ということでは必要なところへ届ける労苦ということも惜しみませんでした。要するに、私たちはここに、会議を大事にしようとした教会の姿をみることができるのではないかと思うのです。たとえば、何か問題があったとき、それをそのままにしてしまうのではなく、また陰で悪口を言ったりしてしまうのでもなく、初代教会はみんなで話し合っていくことを大事にしたのです。そして結論が出ると、それを書面にして周知徹底していこうとしたわけです。なお、今回は特に大事なこととして、28節をご覧ください。ここには、会議を決定する主体が「聖霊と私たち」とあるように、教会会議の決定権はまず「聖霊」あり、また「私たち」にもあるということを心に留めておきたいのです。別な言い方をすれば、これは会議だけのことではありませんで、すべての面で、教会の体質がこの世的な方向に向かってしまうのではなく、むしろ霊的な方向に向かっていくために、私たちには聖霊の支配が、聖霊の導きが絶えず必要だということを覚えておきたいのです。というわけで、願わくは、聖霊に導かれやすい悔い改めた心と喜んで神に仕える従順な信仰とがお互いのものとなっていくよう、神に祈り求めていこうではありませんか。
【恵みの分かち合い】
1.創世記15:6を参照し、信仰の父アブラハムが主の前に義と認められたのは、
信仰によってであり、割礼はその後の出来事であったことを確認しましょう。
2.私たちの教会の会議について、どのような感想がありますか。