聖書の話 2026.03.29
聖書:ルカ23:32-49
題:イエスの十字架
中心聖句:この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを
得ているのです。 (コロサイ1:14)
賛美:108 丘に立てる荒削りの 説教者:グレイ恵子信徒教師
おはようございます。いよいよ受難節も今週を残すところとなり、教会は、きょうより受難週に入ります。レント期間、私たちは、エルサレム入城より始まり、最後の晩餐、洗足、ゲッセマネの祈り、裁判という一連の流れを見てまいりました。今日私たちが注目しますのは、イエスの十字架刑です。ついにこの日がやってまいりました。
イエス様は、裁判後、からかわれ、鞭うたれ、傷ついた体を伴えて、ゴルゴダ、英語ではカルバリーと言われている処刑の場所へ、とやってまいりました。その時のイエス様は、ご自分では、十字架を担ぐことが出来ないほどに弱っていました。それで、イエス様の十字架は、通りがかりの田舎から出てきたクレネ人シモンによって担がれました。「どくろ」という意味のその場所にくると、犯罪人たちを右に一人、左に一人とイエス様は十字架に釘付けにされました。
イエス様は朝の9時頃十字架に掛けられ、それから午後の3時まで、約6時間の間、十字架の苦しみを耐え忍ばれました。その苦痛は、肉体的な苦しみはもちろんのこと、精神的苦痛も伴っていました。イエス様は、その十字架の苦しみの中から七つのおことばを語られました。今日は、そのうちの四つを見させて頂きます。
まず最初に、イエス様は十字架から次のおことばを語られました。それが、今日の34節にあります。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」まわりにいる人々への天の父なる神のあわれみと罪の赦しをお祈りしました。ここで、「彼ら」とは、ローマの処刑執行人たちだけではないでしょう。イエス様を犯罪人としたユダヤの議員やイエス様の十字架を物見遊山で一目見ようと集まっている群衆もふくまれていたことでしょう。いや、そればかりではありません。イエス様を裏切り、逃げて行った弟子たち、そして、時間と空間を越え、今の私たち全人類へのとりなしのお祈りでもあったのです。
そのとりなしの傍らで、ローマ兵は、何をしていたでしょうか。イエス様の残してゆく衣類を山分けするためにくじを引いていたのです。本当にあさましい光景です。それが、何をしているのか分からないでいる人間のもたらす罪深さです。そればかりでは、ありません。誰一人、イエス様へのあわれみのことばを掛ける人はいないのです。まわりはといえば、イエス様の苦しみを見物し、あざ笑っていたのです。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」(35節)「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)そして、さらに、その時、イエス様と一緒に、十字架にかけられている犯罪人からも、ののしられ、つぎのようにせめられたのです。「おまえは、キリストではないか。自分とおれたちを救え」(39節)
しかし、みなさん、そのような状況の中で、意外な場所から、そして、人物から、イエス様をかばい、ねぎらいの言葉を掛けたものがいました。一体だれであったでしょうか。そうです、イエス様と一緒に十字架に掛けられた犯罪人のもう一人です。彼は、自分も十字架刑の苦しみの中から40,41節で次のようにイエス様を弁護し慰めています。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているのではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」この罪人は、このようにイエス様のきよさ、神聖さを告白しています。イエス様は、彼のことばによって、どんなにか慰めらたことでしょうか。
そして、さらにここで注目したいもう一つのことは、この犯罪人は、この時、同時に自分たちの苦しみは、自分たちの罪の結果であり当然受けるべきものであると自分たちの罪深さを反省していることが分かります。このように、自分の罪深さが分かる程辛いことはありません。しかし、みなさん、彼の反省は、絶望では、終わってはいませんでした。それは、希望へと繋がっていったのです。それが、42節にある彼のイエス様への御願いのことばです。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)イエス様によるあわれみを願ったのです。彼は、この時、なぜ、単刀直入に「御国に入れてください。」と言わなかったのでしょうか。私が思うに、いえなかったのでしょう。こんな罪深いものが救ってもらえるはずがない、せめて、思い出していただくだけでもという、彼の謙遜というか、へりくだりの姿勢がこのことばから伺われます。
そのかすかな声を、イエス様は、しっかりと受け止め、ご自分も苦しみにある中、つぎのように答えて下さったのです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)イエス様と一緒にパラダイス、すなわち、御国に入るということを宣言して下さったのです。なんというあわれみ、救いでしょうか。驚くばかりのめぐみです。
イエス様が十字架に掛けられてから昼頃のこと、天地は、暗くなり、闇が漂い始めました。それは、あたかも地上での悪魔の支配を思わせるようです。そして、それと共にイエス様の精神的、肉体的苦しみも増し加えらていったことでしょう。この暗闇は、午後三時ごろまで続いたことが記されていますが、その三時頃のこと、マタイによる福音書では、つぎのイエス様のおことばを記しています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(27:46)イエス様の神との断絶、孤独と苦しみが深く伝わってくるおことばです。
そんな中、一つの大きな出来事が起こりました。それが、今日のルカの45節に記されています。「すると神殿の幕が真ん中から裂けた。」この神殿の幕は、年に一回祭司だけが入ることの出来る幕です。幕の先には、神の存在を示す聖なる場所があります。 へブル10章19節には、つぎのようにあります。「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」すなわち、イエスが十字架で流された血潮によって、神と私たちを隔てている罪が取り除かれ、私たち一人一人が神にまみえる道を作っていただいたことをあらわしています。イエス様は、この出来事の直後、次の最後のことばを大声で叫ばれました。「父よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます。」(46節)イエス様の十字架のミッションは、ついに完了したのです。」
今日の中心聖句には、次のようにあります。「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)「贖い」には、「買い戻し」という意味があります。昔、奴隷たちは、支払い金をもって自由の身となり、もとの主人のもとにもどることが出来ました。すなわち、イエス・キリストの十字架の死は、私たちを贖うための支払い金であったということです。この死によって、人間の滅びの死を代わりに受けて下さり、罪の奴隷状態から解放して下さったのです。そうです。すでに、私たちの罪の代償は、イエス様によって支払われています。
今、私たちに出来る事はなんでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、そのめぐみを感謝して受けることではないでしょうか。あのもう一人の盗人のように!