聖書の話 2026.06.21
聖書:ルカ5章1節-11節
題:主の弟子となる
中心聖句:「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1:17)
賛美:43 わが君イエスよ 説教者:グレイ恵子信徒教師
おはようございます。今日のタイトルは、「主の弟子となる」ですが、
皆さんは、「主の弟子」と聞きますとどのようなイメージが浮かんで来るでしょうか。何か、特別なクリスチャン、例えば聖職者だけのことで、一般の信仰者には、関係がないと思われるでしょうか。イエス様は、どのような人々を弟子として召しておられるでしょうか。そんなことをこころに留めながら、今日の聖書の箇所を見て行きましょう。
イエス様は、三十歳前後に洗礼を受けられ、その後荒野での40日間の試練を乗り越え、いよいよ宣教活動に入って行かれました。イエス様は、当時の社会の必要に答え、悪霊に取りつかれた人々や様々な病にある人々に心を向けられ、癒され、また、神の国について人々に教えられました。人々は、イエス様からの癒しや慰めを求め、イエス様の後を追いかけていました。この日も、イエス様のそばには群衆が押し迫っていました。
イエス様は、ゲネサレ湖、これは、ガリラヤ湖の別名ですが、その岸辺に立っていました。イエス様の目の前には、イエス様のお話を聞こうと押し迫る群衆、そして、背後には、ガリラヤ湖、そして、漁から帰った二艘の小舟が岸辺に定着し、そこでは、漁師たちが網を洗っていました。そのような状況の中、イエス様の知恵は、小舟を説教台として、海の上から群衆に語るというものでした。そして、その為に、イエス様は、近くにあった二艘の小舟のうち、シモン・ペテロの小舟を選び、その所有者であるシモンに声をかけました。漁から帰って疲れていたかもしれないシモンでしたが、素直にイエス様にお従いし、イエス様の為に小舟を漕ぎ出しました。シモンにとっては、これが、イエス様への最初の御用であり、イエス様にとっては、この時、ペテロの協力は、無くてはならないとても大切なことだったと思うのです。
こうして、イエス様はこの場面でも、無事に群衆の願いに答え、神のことばを語ることが出来ました。人々は、イエス様のことばによって、慰められ、励まされたことでしょう。多くの人々が涙を流して聞いていたのではないでしょうか。しかし、今日の物語は、これで終わってはいません。今度は、舟を漕いでくれたシモンへの、神の祝福をお現わしになったのです。イエス様は、シモンを見て次のように語られたのです。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)ペテロは、この言葉に少し躊躇した様子でしたが、イエス様のおことばなのでという理由で、ここでもイエスの指示に従いました。5節には、ペテロの次のことばがあります。「先生、わたくしたちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」(5:5)するとどうでしょうか。二艘の小舟に入りきれないほどの大量の魚の祝福がペテロやまわりの仲間に与えられたのです。
しかしながら、ここで不可解なのは、この大きな祝福を受けたシモンそして、手助けをした漁師仲間、ヤコブやヨハネの反応は、喜びからはほど遠いものでした。この大量の魚を前にしてシモンは、イエス様の足元にひれ伏し、つぎのように言っているのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(5:8)意外なシモンからのことばです。皆さんは、この時、このように語ったシモンの心境をどのように理解するでしょうか。
イエス様は、この時のシモンの心境を理解していたのです。彼に次のように答えられました。「恐れることはない。」(5:10)この時、ペテロは、恐れていたことがわかります。なぜ恐れていたのでしょうか。思うに、彼の心には、二つの恐れが生じたのではないでしょうか。一つには、神の神聖さへの恐れ、そして、もう一つは、それとは正反対の自分の罪深さへの恐れです。それは、そこにいたヤコブとヨハネにとっても同様ででした。
彼らは、イエス様がお示しになった偉大なる神の力をじかに目の前に体験したのです。それは、常識ではとても理解できない大漁の収穫です。そのことがイエス様への恐れとなり、その神からの祝福を目の前にして、彼らは、それを受けるにはとてもふさわしくない、自分の内側や生活態度が思い出され、それが罪への恐れになったのではと思うのです。彼らの心は、大漁を喜ぶどころか、チクチクと針がさすような痛を味わっていたかもしれません。
そのような彼らの心境を見て取り、イエス様は、シモンに言われたのです。「恐れることはない。」そして、次のように言われています。「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
「人間を捕る」とは、「人々をイエス様への恵みへとお導きする」ことを示しています。イエス様からシモン・ペテロへの召命のことばです。すると、シモンはどうしたでしょうか。陸地に着くとすべてを捨てイエス様に従ったというのです。それは、そこにいた他の漁師たちも同様でした。
イエス様は、働きてを求められておられ、それは、この時代の事だけに限りません。今もイエス様は、働き手を求めておられます。そして、その働き手にとって大切なスタートは、その人の持っている社会的地位や名誉、賢さというよりは、自分の罪深さを深く自覚し、主なる神を恐れる人ではないでしょうか。そのようなこころ砕かれた人々のこころの中に主なる神は、お入りになり、ご自分の働き手として、日々作り変え豊かに用いることのできるお方です。
今日の11節には「すべてを捨てて」とありますが、今、世界には、色々な主の働き手、また働き方があります。ひと昔は、例えば、宣教師といいますと、教会の牧師に限られていましたが、今では、農業指導者や医療など、それぞれの得意な分野で送られてくる人々が増えています。パウロもテントを作りをしながら宣教に従事していました。
今日の中心聖句、マルコ1章17節には、次のようにあります。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1:17)
これは、特別な人々へのことばではありません。イエス様はこの世を去る前、自分の弟子たちに、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)と命じています。イエス様は、あなたも私も、イエス様の弟子として送り出したいのです。後は、私たちがそれを受け止め、自覚するかどうかということではないでしょうか。自分に出来る事、また、置かれた場所でイエス様の光をはなつものとして用いで頂きたいと願うのです。弱く、罪深い自分は、とても...と思う人々もいるでしょうか。イエス様は、そのような人々に言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるです。」(5:10)
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1:17)