聖書の話 2026.08.02
聖書箇所 マルコの福音書5:21~34(マタイ9:20-22)
タイトル 「イエスに出会った人々―長血の女性―」
中心聖句 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(マルコ5:34)
説 教 者 黒田 明
新 聖 歌 242われに聞かしめよ
今回のところには、イエスさまの奇跡が取り上げられているのですが、ある方々にとりましては、「こんなことが本当にあったのだろうか。作り話ではないのだろうか」と思われるかもしれません。実は、昔からそのような考えはありまして、「聖書に記されている奇跡には、ほとんど価値を見いだせない」と言う人々がいたのです。つまり、彼らのある者たちはこう考えました。「奇跡というのは、要するに、科学以前の時代に生きていた素朴な人々が考え出した物語にすぎない。聖書の価値は、そのような奇跡にではなく、イエス・キリストという偉大なお方の教えた道徳にあるのだ」と…。そして、そう言いながら、彼らはイエスさまのすばらしい道徳的な教えだけを取り出すために、聖書の中から1つ1つ、念入りに、自分たちにとって「信じられない」「超自然的」「奇跡的」な要素を取り除いていったのです。
ところが、その結果はどうなったでしょうか。イエスさまが伝えた大切なメッセージは、何1つと言っていいほどに、聖書に残らなかったというのです。つまり、それほどまでにイエスさまが「なさったみわざ」と「語られたみおしえ」とは、聖書の中で深く結びつき、またからみ合っていたということなのです。
ですから、聖書に語られている奇跡に対して、「こんなこと、あるはずがない」と、すぐに心を閉ざしてしまうのではなく、聖書が書かれた当時の人々のように、その出来事に驚き、「このようなことをなさり、また語られたイエスさまとは、いったいどのようなお方なのだろうか」を、自らに問いかけていただきたいのです。
というわけで、今回は12年もの長い間、難病で苦しんでいた女の人が、イエスさまによっていやされたという出来事を通して、「信仰による救い」とはどういうことなのかを、ごいっしょに考えてみたいと思うのです。
さっそくですが、今回の出来事は、実は、もう1つの奇跡、すなわち死にかけている娘を何とかイエスさまにいやしていただきたいという、会堂司ヤイロの必死の願いに応じて、彼の家に向かっていたわけなのですが…、その途上での出来事が今回のことになります。なお、会堂司ヤイロについてですが、彼はすでにイエスさまのみもとに集まっていた大勢の群集を懸命にかきわけ、イエスさまの足元にひれ伏して、「どうか家に来て、娘をなおしてください」と懇願した人物でした。そして、この父親の必死の願いにイエスさまがどのようにお答えになるか、群集はかたずをのんで見つめていたのです。
こういうことですから、イエスさまが立ち上がって、ヤイロといっしょに出かけようとなさったときには、このお方のなさる奇跡をぜひ見てみたいものだと思う多くの人々が、押し合い、へし合いでイエスさまの後に従っていきました。そして、イエスさまの着物に触れていやされた今回の女性も、実は、その群集のひとりだったわけです。
ところで、この女性についてですが、私たちはまず、彼女が何に悩み、どうしてイエスさまのところへ行こうとしたのか、考えてみましょう。まずは25節と26節。ここからは、彼女が何に苦しんでいたのかがわかります。要するに、彼女は「長血」をわずらっていました。これは、婦人に特有の病いであり、当時は難病の1つとされていました。さらには、このような病気をもつ女性は、当時、社会的には汚れた者とみなされていたため、人々に近づくことが許されていませんでした。その人に触れると自らも汚れると、そのように信じられていたのです。
もちろん、そんな彼女に同情する人々がいなかったわけではありません。遠くから、この婦人を見るごとに、「ああ、かわいそうに。お気の毒に。長いこと苦しんでいるけど何とかならないものかしら」などと話し合ったに違いありません。しかし、健康な人はなかなか病気の人の目線に立つことができないと言いますか…。悲しいことではありますが、これが人の世の現実ではないでしょうか。
なお、彼女の場合ただ難病で苦しんでいたというだけでなく、その苦しみを誰とも分かち合うことができないでいたということが言えるわけで…。そのような意味では、社会的にも孤独で、見捨てられていた。しかもそれが12年にもなるというのです。その間、彼女はどれほど苦しんだことか。ただ病気が苦しいというだけでなく、誰ともその苦しみを分かち合うことができず、反対に周囲の人々からは「汚れている。汚れている女だ」と言われ、自分でも「私は汚れている」と、いつも言い聞かせ続けなければならない…。そのつらさがどれほどのものであり、またそのような孤独の中で、彼女の魂がどれほど深く傷ついていたか…、私たちには想像もつきません。
思うに、病気の彼女は医者から医者へと渡り歩いたに違いありません。少しでもいい医者がいるとのうわさを聞けば、どんなに遠くでも、少々のお金がかかっても出かけて行ってはいやしを求めたのではないでしょうか。ご承知のとおり、当時の医術には魔術的な要素もかなりいりまじっていましたから、今日で言う「宗教」のようなものにもとびついたのではないでしょうか。
けれども、その結果はどうだったでしょうか。26節をご覧ください。「この女は多くの医者からひどいめに会わされ(た)」とあります。なお、誤解していただきたくはないのですが、これはお医者さんに対する誹謗ではありません。聖書がいわんとしていることは、どんなに優れた医者であったとしても、彼女の難病をなおすことができなかったということを言いたかったのです。けれども、中には、文字通りにひどい医者もいたわけで、やれ「呪いだ」、やれ「たたりだ」などと言っては、おまじない料として、高いお金を支払うことがあったのではないでしょうか。
とにかく、結果は26節にあるとおり、すべては無駄、かえって悪くなる一方となって、肉体的には病み、精神的には苦しみ、そのうえ経済的には貧困に陥り、ついには最後の支えである希望すら失って、彼女は本当にみじめな状態にあったのです。
しかしそんな彼女が、ある日、イエス・キリストというお方のうわさを耳にしました。ガリラヤの町で神の国の訪れを宣べ伝えておられるそのお方は、病気に悩む人々に手を触れ、いやしてくださるとのうわさを聞いたのです。そして、次々と伝えられるうわさを耳にするごとに、もうとっくに失われていたはずの希望が、彼女の心の中に少しずつ輝き出してきて、やがてはそのお方に対する「信仰」というか、「信頼」というか、そういったものがわき起こってきたのです。
そこで今度は、彼女の心の中に起こってきた変化と言いますか、彼女のうちにはぐくまれてきた信仰について考えてみたいのですが…。ご承知のとおり、彼女は希望というものを全く失っていました。医者には見放され、悪質な宗教にはだまされ、あげくの果てには全財産を使い果たしてしまったからです。ですから、そのような彼女が生きていくために残された道は、もう「あきらめ」しかありませんでした。「どうせ、なるようにしかならないのだから」と、そのように自分に言い聞かせながら毎日を送っていたに違いないのです。ですから、これは想像ですが、最初にイエスさまのうわさを聞いても、彼女にはそれがなかなか信じられなかったのではないでしょうか。心が少し動くことがあっても、「どうせまたペテン師だ」「うまいこと言って、また持ち物を巻き上げられる」「たとえ本当にうわさ通りであったとしても、私にはもうお金がない」と考えたに違いないのです。
しかし、彼女が耳にするうわさには、イエスさまのすばらしいみわざのみならず、そのご人格、またその教えについてのうわさも含まれていました。そうです。このお方はただ単に病気をおいやしになるというだけではない。権威をもって罪の赦しを宣言し、自ら進んで病める者の友となっておられるとのうわさが含まれていたのです。それゆえに、彼女の心にかすかな光が射し込んできたのです。そしてイエスさまというお方に、手を触れていただきたいと願うようになったのです。いや、私は汚れた者であるゆえに、手を触れていただかなくとも、「あの方の衣にでも触れれば、きっとなおる」と、そう思うようになっていったのです。
愛する皆さん。実は、ここに彼女の信仰を見ることができるのではないでしょうか。すなわち、彼女はまだイエスさまを見ていませんでした。しかし、たとえ見ていなくても、信仰はいつも、聞くことから始まるのです。とはいえ、彼女にはまだ悩みやためらいがなかったわけではありません。汚れている私、人に触れてはならない私が、いかにして大勢の人々をかきわけて肝心のイエスさまのもとへ行くことができるのか、そしてイエスさまに触れることができるのか…。
ところが、イエスさまが近くに来られたと聞くと、彼女はいてもたってもいられず、27節から29節にはこうあります(読む)。思うに、私たちはここから、私たちにとって大切な「信仰」について、次のことを知ることができるのではないでしょうか。すなわち、信仰とは「こうしてほしい」という私の必要をもって、イエスさまのご人格に触れることが大事であるということです。求道中の方々のうちには、イエスさまを見つめるよりも、イエスさまを取り巻く周囲の人々に目が向いてしまって、大切な決心をためらってしまう方々が少なくありません。あるいは、イエスさまの話を聞いて「私もそう思います」、「心の中では信じていないわけではないのです」と言われる方々もよくいます。
けれども、彼女の場合、いやされるためにはただ遠巻きにして眺めているだけではだめでした。また、どんなにか熱狂的でも、イエスさまを取り囲んでいるあの群集のように、好奇心だけで、イエスさまの追っかけをやっていても救いには至らないのです。救われるためには、「こうしてほしい」という私の必要をもって、イエスさまのご人格に触れることが大事なのです。
さて、今度はイエスさまに焦点をあててお話を進めていきたいのですが…。30節、31節。ご承知のとおり、これは会堂司ヤイロの家に向かう途上での出来事でした。しかも、ヤイロの娘は死にかけていたわけですから、皆は一刻を争って道を急いでいたものと思われます。ところが、突然、イエスさまは足を止められ、「だれがわたしの衣にさわったのですか」と言われたものですから、弟子たちは「イエスさま、そんなことおっしゃられても無理ですよ。ご覧のように、こんなに多くの人々が押し合い、へし合いでついて来ているのですから」と言われました。
思うに、このときの弟子たちですが…、彼らは足を止められたイエスさまに対して、じれったさを感じていたのではないでしょうか。なぜなら、彼らの目的地はヤイロの家でした。しかも、会堂司といえば、礼拝を取り仕切る人物です。となると、その娘がいやされたなら、イエスさまの評判はますます高まっていきます。ひいては、弟子である自分たちも、高められていくわけですから、彼らの心はもうすっかりヤイロの家の方に向いていたのです。
ところが、イエスさまは、このようなときでさえ、群集の中からひそかにご自身を求め、ためらいがちに手を差し出し、恐れと恥とで、また群集の中に引っ込んでしまったひとりの人に無関心ではいられませんでした。しかも、彼女をいやしたのは、彼女の信仰であると、イエスさまはそう言われたのです。
思うに、彼女の信仰には、だいぶ迷信的なところがありました。なぜなら、このように特別な人の衣にさわるなり、その人の影を踏むなりすると、病気がたちまちのうちになおるという考えが当時あったからです。だとすれば、もし彼女がこのまま人ごみにまぎれてしまったら、何が自分をなおしたのか、それが迷信的なものに隠されてしまって、大切な信仰というものを見失ってしまう可能性がありました。
そこで、イエスさまは彼女がそのままで群集の中にまぎれてしまうことをお許しになりませんでした。しかし、彼女はそうしたいのです。誰にも見られず、このままこっそり消えてしまいたかったのです。けれども、イエスさまは彼女との人格的な交わりを求めておられたのです。
さて、イエスさまがご自身との人格的な交わりの中で、彼女に求められたのは何だったでしょうか。そして、彼女のうちにしっかりと刻みつけようとされたことは何だったでしょうか。あなたがもし、イエスさまを信じたい、いや、もう信じている。けれども、もう一歩の信仰を踏み出すことができないでいるとするなら、イエスさまは、今、あなたに何を求め、何を与えたいと願っておられるでしょうか。どうか、そのようなことに心をとめながら、聞いていただきたいのですが…。
まず言えることは、イエスさまは彼女に「ひとりで御前に出てくることを求めておられた」ということです。聖書には、イエスさまが群集を見回している間、彼女は「恐れおののいていた」とあります。恐らく、12年もの間、苦しみ続けた自分の汚れた部分に神さまの聖なる御手が触れた、という事実が彼女を恐れさせたのでしょう。でも、それだけではありません。彼女がもし御前に出て行ったなら、イエスさまを取り囲んでいる多くの人々の視線にさらされることになります。すると、どういうことになるでしょうか。彼女を知る人たちからは、「汚れたままで、よくも俺たちの間に紛れ込んでいたものだ」とか、「やれ、しきたりを破った」「やれ、私はさわられた」などと言われ、冷たい非難の視線を浴びせられることになるのです。
このように、苦しみと孤独の中にあった人がイエスさまを信じて救われても、周囲の人々は必ずしも喜んでくれるとは限りません。場合によっては、悩める人の魂よりも、世間体とかしきたりとかの方が大事になってくることがあるのです。
さて、聖書によると彼女には恐れやためらいがあったにもかかわらず、人々が見つめる中、イエスさまの御前に出て行きました。すると、イエスさまは彼女に1つの大切なことを示されました。それは、「何が彼女をなおしたか」です。すなわち、彼女はそのときあるがままで真実を語りました。それを語ることでイエスさまからさえ叱責されるのではないかとの恐れもありましたが、彼女はすべてを打ち明けたのです。そして、それは立派な悔い改めでも、整った告白でもありませんでした。そこには、人間的なこと、迷信的なことが様々にからみあっていたからです。しかし、彼女にはイエスさまへの信仰がありました。しかも28節によると、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」という単純な信仰でした。しかし、イエスさまはそんな彼女の単純な、しかし真実な彼女の信仰をご覧になり、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(34節)と仰せになられたのです。
ということで、今回私たちは、あるがままで受け入れてくださるイエスさまの愛、その愛の力に導かれながら、イエスさまに信頼し、イエスさまを信じて歩んでいく、そんなお互いでありたいと思うのです。